【塾長コラム】へんな日本語・へんな敬語
ヘンな日本語・ヘンな敬語
このコーナーは、皆さんから提出された作品でおかしな言葉が使われていたときに、 (むろん作者名は伏せて)これはおかしいこれはこうしたほうがいい、といった形で掲載してきました。
それらが出尽くしたので、同じことをやるのは無駄と考え、打ち切ったのですが、 再開の要求もしばしばあり、すでに書いた「おかしな言葉」がその後もつづき、
教室生と同じく新しい人たちもこのページを訪問してくれるのだから、 繰り返しになってもやはり意味のあることだと考え、復活させました。 |
2007年5月14日 『紫外線が強いですので』
たしか以前にもこの言葉は取り上げたと思うが、相変わらず「気象情報」で耳障りなのが、「紫外線が強いですのでご注意ください」「風が強いですので……」「雨が激しいですので……」といった表現だ。「紫外線が強いのでご注意ください」でいいではないか。それで充分丁寧な言葉遣いといえる。言葉は生きものであり、目くじらたてるつもりはないが、「です」をつければ丁寧、と勘違いしている人が多いのもたしかなことだ。
文化庁の『言葉に関する問答集(初版平成7年、3刷同11年)』を調べたら『形容詞に「です」を直結させる言い方は、今日では、もはや誤用とは言えない実情である』と、なんとも歯切れが悪い。仕方がないけどこれが現状だといっているように聞こえる。何もかもがいい加減になってきた世の中だが、文化庁がこのようないいまわしをするのは情けない。なぜ教育を怠るのか。
さらに『それまでの文法書、例えば国定教科書の「中等文法」などでは「です」は体言に接続し、動詞、形容詞には付かないと説明されていた。(ただし、「です」の未然形に推量の助動詞「う」の付いた「でしょう」の場合は例外とされ、「大きいでしょう」「美しいでしょう」は正しい言い方とされていた。)つまり、形容詞を丁寧形にするには「大きゅうございます」「美しゅうございます」と、「ございます」を下に付ける言い方しか認められていなかったのである』と、難しげに当たり前のことをいっている。
『「大きゅうございます」「美しゅうございます」という言い方は、丁寧すぎるとか、形も冗長であるとか感じられてだんだん一般の人の意識にそぐわなくなり……』はわかる。でも、国語学者は言葉の歴史を列挙するのが仕事ではない。これが正しい日本語という指針を示さなくては、若者が戸惑うではないか。「紫外線が強いのでご注意ください」と、少なくとも国営放送を名乗るNHKではいうべきである。それでも「一般の人の意識にそぐわなく」なるなら、それは日本語から敬語がなくなる時だろう。
2007年2月2日 『お車は駐車場に入られてるんですか?』
家具屋で小テーブルを買った。包装した店員、運んでくれようとして「お車はうちの駐車場に入られてるんですか?」と聞く。こういう所で誤りを正せば嫌われるだけだから、私はうんと答えて運んでもらったが、この手の間違いは昨今ザラにある。車がお入りになったのではなく、人間がお入れになったのであるから、客に敬語を使うなら「お車はうちの駐車場にお入れになってるんですか?」と訊くべきで、彼は車に敬語を使ったことになる。「お車」は客の持ち物だから丁寧語が適当だが、、車の動きに敬語を使うべきではない。
敬語は、聞き手や話題の中の人に対して、話し手が敬意を表す言葉であって、私の車など、どこに置かれようと、人から尊敬される類の存在ではない。
2006年12月6日 『赤ちゃんのお世話』
数年前にやめた生徒から年末の挨拶が届いた。シナリオコンクールで最終候補までいった女性で、結婚するために脚本家を諦めるというので惜しいなと思ったほど「書ける人」である。とっても幸せですというので、それならよかったと思ったのだが、その次の文章にひっかかった。「赤ちゃんのお世話で大忙しです」とある。昔なら、例えば女中が「ご主人の赤ちゃんのお世話をする」という言い方をした。でも自分の子の「お世話」はおかしい。その辺の言葉遣いで迷ったり自信がなかったり勘違いしている若者は今非常に多い。なんでも「お」をつければ優しい言葉というわけではない。自分の子に敬語を使うなど滑稽なことで、恥ずかしいことなのだ。
この欄でも何年か前「うちの子にお小遣いをあげる」「犬に餌をあげる」はおかしいと書いたことがある。でも今やそれがまかり通るほど言葉が乱れている。言葉のプロであるアナウンサーまでもが使う。言葉遣いは時代とともにどんどん変化しているが、物書き志望の人なら本来これは間違いであるということは知っておいてもらいたい。他人に自分の身内の話をする場合は謙譲語(へりくだった言い方)を使うのが日本人だった。自分のことを拙者といい、息子のことを愚息といった。「私の赤ちゃん」とはいわず、「うちの赤ん坊(時代劇なら赤子)」などといった。
言葉が時代とともに変化するという一例をあげておく。30年ぐらい前のことだが、生徒のお父さん(明治生まれ)からの手紙に「息子」と書くべきところを「豚児」と書いてこられたのが忘れられない。関心のある人は辞書をひいてほしい。広辞苑には『豚児──自分の子、特に息子の謙称。愚息』とある。その他にも、若いころ、行き過ぎた謙譲語だと思ったことは度々あった。もちろん今豚児などという言葉を使う人はいないだろう。それと同じぐらい、身内への尊敬語は私の耳に奇異にひびく。
2006年10月30日 『了解しました』
生徒たちからの返信メールに「了解しました」という言葉がやたら多い。 まるで判を押すようにその言葉から始まるのにはうんざりし、ボキャヒン、不用意な言葉遣いを痛感する。 交通巡査同士の無線連絡の応答なみだ。 広辞苑によれば了解は『さとること、会得すること、理解して認めること、そのものの意味をとらえる』などとある。 『了解を求める』『暗黙の了解』など決して敬語ではない。丁寧な言葉を使いたいなら「了承」「承知」などがあり、 時代劇では「委細承知仕りました」などと書いた。さらには「承る(謹んで受ける、の意)」などがあるが、 今の若者なら「了承いたしました」が適当ではなかろうか。